提灯の歴史と文化

人類は「火」を使うことによって、その他の生物とは違う進化を辿りました。

一つには、食物に火を通すことで栄養の吸収率がよくなり寿命が延びました。

また一つには、火によって暖をとれるようになり、世界の隅々まで居住地が広がりました。

そしてもう一つには、夜の暗闇に灯りを点すことによって身の安全と心の安らぎを得、そのことが人類の大脳の発達を促したとも言われています。

太古の夜の闇の中で、一つの炎が点す灯りはさぞかし心強かったことでしょう。

その原始の記憶は、今でも人々の遺伝子に刻み込まれているのでしょう。

提灯の歴史

提灯の歴史は古く、その起源は室町時代まで遡るといわれています。当時中国からもたらされたとされる提灯は、竹かごに紙を張った折りたたみのできない篭(かご)提灯のようなものでした。折りたたみの出来る提灯が使われるようになるのは室町時代末期の頃で、当時の絵巻には葬列の中の一員が提灯をぶら下げている様子が描かれており、仏具的な役割をしていたことがうかがわれます。

 安土桃山時代から江戸時代はじめ頃に祭礼や戦場での大量使用が要因となって技術革新がなされ、軽くて携帯に便利な簡易型への発展を遂げました。

 更に、江戸時代中期以降にロウソクが大量生産できるようになると、それまで天皇・貴族・武士・僧侶など上流階級の人々だけが使用していた提灯も安く大量に出回り、多種多様な形状の提灯が人々の生活に浸透していきました。盆供養に提灯を使う風習もこの頃浸透していきました。

 この頃の提灯は、いうなれば現代の懐中電灯や室内照明具、またはネオンサインのようなもので、全国各地の都市で提灯を作っていました。

名古屋提灯の歴史

その中でも名古屋は特に提灯製造の盛んな土地でした。提灯の材料となる和紙や竹ひご、木材が豊富に手に入る他、火袋(ちょうちんの部分)を貼る工程に必要な人手も人口の多い名古屋だからこそ補えたためです。

 大正二年に出版された「愛知縣写真帖」では、以下のように名古屋提灯の隆盛を伝えています。
「名古屋における提灯の製造は頗る古しといへとも岐阜の声価に厭せられ久しく世に顕れざりしか近来頻りに意匠を凝し製作に改善を加へたる結果販路次第に拡張し海外輸出の紙製品中に於いてその名頗る挙れり全縣下製造戸数は最近調査によれば二百五十余戸に上り職工千二百九十五人を使用し産額九百五十萬一千七百十三箇。価格三十一萬三千五百六十二円にして主なる営業者は中村源蔵、鈴木寅松等なり。」

 名古屋提灯は愛知県の名産品として国内だけでなく、広く海外にまで輸出されていいました。当時の「豊田式織機」(トヨタ自動車の前身)の売上が年間三十三万五千円という事ですので、それに負けるとも劣らない一大産業であったことがうかがえます。

お盆提灯の歴史

お盆の期間に灯りを点し、その灯りを頼りに祖霊が戻ってくると言う考え方は、仏教が日本に入ってくる以前の、日本古来の宗教観・人生観に基を発していると思われます。その後、仏教や中国由来の季節習慣(七夕)等の影響を受けながら、同時に収穫祭や虫送り・ねぶり流しといった民族的慣習を取り込み、現在の形になってきました。その中で祖霊の迎え・送りの役割を果たす「盆提灯」は欠くことのできない存在となっております。